Eyes on Hand Ukedo-Coast 手の目 請戸の海岸 2015, oil on canvas, LED light, silicon
■Re:Eyes on Hand ? Artist Statement
The title of this exhibition "Re:Eyes on Hand" represents the attempt to revoke a "Eyes on Hand", a kind of Japanese Yokai (monster) in shape of a Zatp with an eyeball in its palm. Its theme are people trying to "touch there eyes" seeking for their memory. 【note】
People wandering around with their cell phone devices with monitors are just alike "Eyes on Hand". The device allowing things without existence to be seen with their hands are alike allowing a partial function of the eye being transferred to the hand.
It is a haptic device. Perhaps seeing the world through lenses and monitors are blind behaviors, like using a torch in daytime. The people looking at photographs/video images with their tools are alike wandering around the transparent space with an indicator in hand and seeking for fractional light, trying to "touch" the object with their eyes.
Perhaps are they not trying to redeem their physical feeling in the world and technology harsh for grasping trails, by "touching with their eyes."
An experience of transparency, projection, numerical, and seeking for light. On the other hand there is the image of actually layering the "imprinted" image as a trace of the sight vision, light ray and heat, onto the surface of a paper.
The object exposed to light then undergoes a relay of an optical relay, and then results in a state of "being touched with an eye" on the surface of the printed paper. The experience of non--‐transparency, physicality, the skin (the film), and receiving light.
However, if photography/video films are simply understood as something to be "touched with an eye" and being received, or something which provides an evidence to the human eye, only what becomes visualized would be valued. This brings up the debate of authenticity ? what is true and false.
I would like understanding what kind of eyesight would be guided, and what kind of desire of the photographer/the editor is exposed there ? for example, how they scrabbled for the haptic sense within the world of transparency with technology where physical traces are lean, and including such condition of the eyesight and the hand, I would like to call them images and/or memories.
In this exhibition, the reappearance of photography/film images as tools are exaggerated. The artwork does not become an evidence of actuality. Instead, it intends to edge into the eyesights of the viewers, and reassemble the relationship of traces and memories (or in other words, the relationship of "history and imaginary"), through replication as the "Eyes on Hand."
With an old photograph from the past, and the future technology in our hand.
Kota Takeuchi
December 22nd, 2014
【note】
I came up with the idea inspired by people wandering around with radiation counters and cameras, news reporting troubles caused by walking while operating the smart--‐phones, and the action of Masao Okabe who was making frottages in Namie and Minami Soma.
translation by Kana Kawanishi
(detail)
竹内公太 | Re:手の目
本展のタイトルである「Re:手の目」は、座頭の格好をした手のひらに目玉を持つ日本の妖怪の一種である「手の目」を召喚しようというものです。記憶のために”目で触ろうと”する人がテーマです。【注】
モニター付きの携帯機器を持ってうろうろ徘徊する人はさながら「手の目」のようです。手を使って見えないものを見る装置は、目の機能を一部手に移す、触覚的な装置です。レンズやモニターを通して世界を見るのは、明るい昼間に懐中電灯を使うような、盲目的なふるまいかもしれません。
ツールとして写真/映像を見ること、わずかな光を求め測定器を手に透明な空間を徘徊するような、対象に”目で触ろう”とする人の姿。彼らは痕跡の捉えづらい技術と世界において、物体的な実感を補うかのように、”目で触ろう”としているのではないでしょうか。透明、映像的、数値、光を求める体験。
一方でフィルムや印画紙の技術での、被写体への視線・光線・熱線の痕跡と、紙の表面の痕跡とを、実際に"焼き付けた"ものとして重ね合わせた想起。光に晒された被写体が、光による痕跡のリレーを経て、焼き付けられた紙という形で”目に触れる”に至る。不透明、物体的、皮膚(フィルム)、光を受ける体験。
写真/映像を単に”目に触れる”もの、受け入れるもの、証拠らしきものを人の目に与えるものとしてだけ捉えれば、何が可視化されるか、ということが価値になり、真贋論争にもなります。私は、どのような視線を誘うのか、撮影者/編集者のいかなる欲望の発露であるかということ、例えば物体的な痕跡の乏しい、透明な世界と技術において、いかに触覚を求めた手探りなのかというような、視線と手のありようを含めて、イメージとか、記憶と呼びたいと思います。
本展では、ツールとしての写真/映像を大げさに手作業により再現します。作品をもって現実の証拠などとはしません。そのかわりに、「手の目」としての再現を通じて、鑑賞者の視線へ介入し、痕跡と記憶の関係(あるいは「歴史と想像の関係」)の再提案を目論みます。昔の写真を手に、未来の技術を待ちながら。
2014年12月22日
【注】放射線測定器とカメラを持って徘徊する人々、歩きスマホでのトラブルのニュースなどを見つつ、浪江や南相馬でフロッタージュを制作する岡部昌生さんの取り組みなどに感銘を受けながら構想した。
(exhibition view)
Re: 手の目 Q & A
Q: 《ブックマーク》の「我たシ」とは誰ですか?
A: ここではこの映像作品そのものを指します。それぞれの石碑の作者や碑文の著者とは別の"私"を引き出しています。
Q: 《ブックマーク》ではどんな石碑を撮っていますか?
A: 石碑が建つ場所近辺での戦争、防災、開発、事故といったテーマのものを選んでいます。出来事の記録、現場性を重視しています。
Q: 《手の目》、不穏な雰囲気ですね
A: 実際の風景にこのような影はありません。風景に対しある操作を施すとき、操作する手(機器)自身が作り出す盲目性があります。不穏さを生み出すのは手、人の視線です。しかし風景が先か視線が先かは卵と鶏のような関係だと思います。
Q: 《ブックマーク》と《手の目》は関係がありますか?
A: どちらも手で撮る、手で見る行為を扱っています。
Q: 妖怪「手の目」を召喚する、とありますが、姿が見えません。
A: 「手の目」の手の目だけ姿をお借りしました。あとは、皆さんの目の中に上手く召喚できていると良いのですが。
Q: 《手の目》の手は障害、欠損のイメージですか?
A: そう捉えることもできるでしょう。機器を手にし特別な現実を把握できると同時に不自由さ、困難さも抱えると思います。もちろん、手の目は放射能で出来たモンスターなんてことではありません。機器を手放せない人間の姿です。
Q: 《手の目》は電池がついていますが?
A: モバイル機器を意識して電池で点灯させていました。この展覧会場ではコンセントからアダプタで電力を摂っているので、家で充電しながら使っているような状態ですね。
Q: 歴史が見えない、過去が見えない、と言いたいのですか?
A: 過去の出来事はメディアを通すが故に把握しづらいのは確かだと思います。ただ、その先の想像することを否定するつもりはありません。見辛さを踏まえて、なお見い出そうとする能動的な視線とともに風景画を味わって頂ければと思います。
Q: 風景を前にたたずむ私、ちょっとナルシスティックですね
A: 歴史や災害を前に佇む自己像に耽溺してそれを提示するだけ、にならないよう気をつけていはいますが、至らない部分は精進します。もう少し対象そのものを描くことを課題としたいです。
Q: 描かれているのはどんな風景ですか
A: 《手の目》や穴から見た光景の写真では、竹内が足を運んだ実在の場所のうち、過去の痕跡が残る場所、今は見られなくなった場所を選んでいます。現場レポートのようなものです。
Q: 災害の光景、忍び寄る影、ちょっと既視感あるかも
A: 災害を扱う写真や絵はたくさんありました。その光景の不穏さの源が風景そのものではなく見る人の手、目にあるのがこの作品のポイントです。
Bookmark ブックマーク 2013-2015, video installation
photo by Kioku Keizo
■《ブックマーク》
いわき市の石碑を訪ね歩いたある新聞記者の書いた本をテキストにして、自分もその石碑を訪ねました。主に産業、災害、戦争、事故についての石碑を訪ねました。本にしおりを挟むように、石碑から一文字ずつを拝借して、自己言及文「我たシは石碑でハ無い」をまず作りました。それはこの映像インスタレーションを見る未来人を想定して、石のオーラを映像データで抽出し、石から切り離した「私」を鑑賞者に伝える意図がありました。ただ、文献やメディアの存在を否定するとも捉えられそうな点を修正したく、少し時間が経って語尾に「けれど」を付け足しました。《石碑を二度見る》はその際にテキストにした本の著者が撮った写真と同じ構図で撮った写真です。
■手の目
過去の痕跡が残る場所、あるいは再開発で今はもう見られない風景を描きました。またそうした風景を前にいちいちカメラや携帯電話のモニター越しに見る自分の手を再現しました。写真や絵を前にして、「風景から何かが漂ってくる」とする見方に疑問があり、「何かを見いだそうとする目、手」の有り様を含めて風景画としました。
・好間の鉄道跡
石炭を運んだ軽便鉄道の跡を調べ歩いていた時に撮った写真を元にしました。以前レールが敷かれたとされる場所に立って、木々の中の暗がり(トンネル跡)に向かっています。
・薄磯の横穴
2011年の地震と津波で大きな被害の遭った地区に、家屋が流失したためにその後ろにあった穴がいくつも露出している場所がありました。ニュースや郷土史家によると、いつ頃できた穴かわからないが、物置として使われたり、戦争中は防空壕になったりしていたそうです。一帯を高台にして復旧する工事のため今年の冬にこの穴は取り壊されました。
・薄磯の神社
古峯農商神社という神社の社から振り返って鳥居に向かっています。この神社は小山の上にあったので海がよく見えます。横穴と同じく、住宅再建のため山ごと壊して別所に移設されました。
・請戸の海岸
去年の秋から車で6号線を通行できるようになったことで、少し遠出をして訪ねることができました。付近では瓦礫の選別作業をしていました(2015年1月)。
穴から見た写真群は「手の目」の構図の参考にした光景です。トンネル、横穴、海蝕洞、映画館の解体工事といったシーンで、穴の中から外を覗いたものです。穴の暗がりを、「手の目」では手の指による影に置き換えています。手元の装置が盲目性を、そして触覚を誘うのかなと、放射線測定器やスマートフォンを見つめ持ってふらふら歩く人を見ていて思いました。
2015年3月