影を食う光 展示の記録と解説(pdfファイル 16MB)

影を食う光  Sight Consuming Shadow
会期 2013 年11 月22 日(金)ー12 月23 日(月)
会場 森美術館
[アクセス] [GoogleMap]
開館時間 午前11 時ー午後16 時30 分(最終12月23 日(月)を除く月、火、水 休館) 入場無料
主催 三凾座リバースプロジェクト
助成 公益財団法人 福武財団(旧 文化・芸術による福武地域振興財団)
協力 森美術館(福島県いわき市大久町) 他
本展についてのお問い合わせ
三凾座リバースプロジェクト 檜山直美 : kinokurashi@gmail.com
竹内公太 :  mail@kota-takeuchi.net


■ 参考図像
《三凾座の解体》(銀幕に二台の映像プロジェクション、カメラ、椅子)より
三凾座の解体映像テスト
※ 画像は映像インスタレーションの試験時に撮影されたものであり、実際の展示とは異なります)


《ブックマーク》(10 チャンネル映像インスタレーション、本(斉藤伊知朗著・近代いわき経済史考) )より
「石」(夏井川渓谷 常磐東線の遭難碑)
「石」(夏井川渓谷 常磐東線の遭難碑より)



■ 本展によせて  竹内公太 Kota TAKEUCHI

三凾座リバースプロジェクトからの誘いで2012年8月再びいわき湯本に来た。話を聞くとプロジェクトの方はもはや劇場の機能としてリバースさせるまでのパワーは無いようだった。
この歴史ある建物で以前は上映会やイベントをやってきたけれど、震災と原発事故で抱える不安の中、自分たちの家族、生活こそが今大切で、また、有形登録文化財であるこの建物も来年あたり解体がすでに決まっていて、との話で、それはなるほど、いまやノスタルジーに酔いしれるだけの余裕がないのでしょうかなと思い、逆に復興や地域振興などのお題目はまったく気にせず好きなことをやれるというので、本当に好きなようにやってしまった。
紆余曲折を経て、結局リバースプロジェクトの方の多大な支援と、展示会場として貸していただける森美術館のご協力もあり、映画や石碑のオマージュとしての映像インスタレーションを設計した。光を観ること≒観光の、リバースならぬリプレイのような展覧会を企画した。展覧会タイトル「影を食う光」は《三凾座の解体》の映像テスト時に得た率直な印象である。習作の映像、ドローイング、各種資料も併せて設置する予定である。


《三凾座の解体》は映像インスタレーション作品。二つの映像をひとつのスクリーンに重ね合わせる。映像のうちのひとつは三凾座という劇場が解体される様子であり、かつてスクリーンが設置されていた箇所から観客席側にむけて定点撮影したものである。録画した映像データをメディアプレーヤーを用いて再生し、プロジェクターを使い投影する。もうひとつの映像は展示会場、この映像の鑑賞者側を小型カメラを用いて撮影したもので、リアルタイムで別のプロジェクターから投影する。ふたつの映像を投影する面はかつて三凾座で使われていた銀幕スクリーンを用いる。
録画された過去の映像の中で、以前劇場の長いすがあった位置と、現在の展示会場の映像の鑑賞者が座る長いすの位置とが概ね一致するように、二つの映像の大きさと位置、長いすの位置、カメラの角度を調整する。鑑賞者は長いすに座って映画を観る要領で、劇場が解体される様子を内側から鑑賞する。銀幕には解体される劇場と、その劇場に座る鑑賞者が映っている。解体される劇場の中に擬似的に居座ることができる。



映写機、プロジェクターは暗い面に光の束を投射してその反射光を見ることで映像を視認することができる装置である。投影面が暗いことが映像を観る条件である。このインスタレーションでは二台のプロジェクターから同じ面に向けて光を投射するので、一方の映像の中の暗い部分にのみ、他方の映像の明るい部分が現れる。過去の劇場内の影の部分に、現在の展示会場の鑑賞者が映りこむ。逆に、暗くセッティングされた現在の展示会場の背景部分に、過去の劇場の外からもれ入る光が映し出される。過去の光と現在の光が、お互いの影を食い合う。お互いの影をお互いの光が侵食する形で視認できる劇場と鑑賞者の共存が、劇場が徐々に解体され明るくなるにつれてどのような終わりを迎えるのかは、実際の鑑賞者となって一見していただきたい。


《ブックマーク》は映像インスタレーション作品。10 本の映像を10 台のモニターを用いて再生する。
それぞれの映像はいわき市内にある石碑の碑文のうち一文字を撮影したものであり、10 文字そろえると文ができる。石碑はいわき市の図書館にある『近代いわき経済史考』(1976 斎藤伊知郎 著)というオレンジ色の本を参照した。これは著者が市内にある石碑を巡って碑文、由来、設置の経緯等をひとつずつ詳述したものである。ジャーナリスト・教育者であった著者らしく、石碑は経済史(戦争、産業、開発)の視点で選定されており、激動の近代が石碑/書籍という異なる二つのメディアに刻まれる様子に気づかされる興味深い本である。
この書籍が発行され約40年、カメラ、コンピューターの発達、ネットワークの構築等によって、歴史は電子媒体への記録が進んでいる。現在進行形の出来事は先に電子媒体での記録があって、後からアナログの媒体に翻訳している。電子媒体は石碑と違い、アクセスするのに遠方への移動を必要としない。また石碑の風化は記録の風化と一致するが、電子媒体は必ずしも一致しない。石碑の不完全さが要請する移動、メンテナンスは旅、儀式となり、共同体の記憶として機能していただろうが、電子媒体は旅、儀式を生むだろうか。そうしたことを考えながら山中の石碑をデジタルビデオカメラで撮影しに行く。撮影を始めると、表面の苔、石肌のざらつきや風化の具合に気が行く。昔の人はこの石碑というメディアに刻むことで記憶を" 盤石" たらしめんとしたのだろうか、などと現代人としての感想を心の中でつぶやく。典型的な旅情を堪能する。
では、未来人が現代の映像を見たとき、どのようにつぶやくのだろうか。未来人にとって現代の映像再生は石の碑文を読むような旧い方式であるかもしれない。石のように旧いのに、石のように劣化していない。移動も石肌のざらつきも無い、記録への高速アクセスとコピー&ペーストされた別媒体での再生に、儀式の余地はどう生まれるか。
そのような疑問から、本インスタレーションでは現前に立ってはじめて意味として機能する文を石碑文字の映像を用いて構成することにした。未来人にとってそれは鑑賞行為を儀式たらしめんとする苦肉の策に見えるのかもしれないが、はたしてどう映るのか。
(2013.9.4 竹内公太)